三国の残照  【三国志演義】

V.三国の終焉

1.成都陥落し、蜀漢滅亡す

 司馬仲達の電撃的なクーデターによって、既に魏の実権を掌握していた司馬一族。時の権力者にして仲達の子・司馬昭は、蜀の弱体化を見て取り、征蜀に向けて軍事行動を起こします。

 蜀に進発した魏軍ですが、鍾会(ショウカイ)の部隊は姜維が足止めに成功したものの、もう一方のケ艾(トウガイ)の部隊は奇襲によって首都・成都を急襲しました。
 姜維は未だ鍾会と対峙していましたが、劉禅は降伏・開城を決意したため、西暦263年、ここに蜀は約40年の短命の歴史を終えました。
 三国の中では2番目に勃興した蜀ですが、結果として最も早く滅亡しました。

2.曹魏帝退き、西晋興る

 魏帝・曹叡(ソウエイ)の死後、後を継いだ曹芳(ソウホウ)を廃した仲達の子・司馬師。代わってお飾りの帝位に就けられたのは曹髦(ソウボウ)。これら司馬氏の専横を見かねて諸葛誕らが反乱を起こしましたが、ことごとく鎮圧されています。
 遂には曹髦も、病死した司馬師に代わって権力を握った司馬昭を除こうと決起しましたが、これも失敗に終わり、曹髦は刺殺されました

 蜀討伐の戦功により、司馬昭は翌年に「晋王」の位を与えられました。これで皇帝の椅子まであと一段という所まで登りつめましたが、さらにその翌年に病死してしまいます。
 そして晋王の座を継いだのは息子の司馬炎。彼は父が死んだ同年、早速時の皇帝・曹奐(ソウカン)に禅譲を迫り、遂に皇帝の位に就きます。
 西暦265年、こうして魏は成立から約45年を経て「簒奪」という形で滅亡し、新たに「」が誕生しました。そしてそれは皮肉にも、魏が誕生した時と全く同じ経緯を辿ったのです。蜀滅亡から僅か2年余りのことでした。

3.東呉滅び、中原の統一成る

 在位52年の長きにわたった孫権の後を継いだのは、まだ10歳の孫亮。しかし6年後に廃位され、孫休が帝位に就きます。ところが孫休も在位僅か6年で病死してしまいます。この頃、蜀が滅亡し三国のパワーバランスが崩れ始めていました。
 そして呉のラストエンペラーとなる孫皓(ソンコウ)が帝位に就きます。しかし孫皓は残虐な暴君として君臨し、傾いていた国勢をさらに衰退させてしまいます。

 司馬炎は征呉の軍を起こし、30万の大軍を持って文字通り破竹の勢いで進撃して、孫皓を降伏させました。
 こうして三国の内で最後に残った呉も、西暦280年、成立から約60年で滅亡しました。

4.群星隠れ、三国時代終る

 呉の滅亡によって、魏・呉・蜀の三国は全て歴史上から消え去り、数多の智将・猛将、あるいは凡将・愚将といった群雄が光り輝いた三国時代は幕を閉じました。
 結果として三国を統一したのは、魏・呉・蜀のいずれでもなく、晋(西晋)という新たに興った国でした。

 結局最後に笑ったのは、孔明最大のライバル司馬仲達に連なる一族ということになりました。しかしこの晋もまた、中原統一から約20年後に大乱(八王の乱)が勃発して国力が疲弊し、統一からおよそ36年で滅亡しています。
 中原は再び分裂抗争の南北朝時代へと突入し、次なる統一王朝の誕生は西暦589年のの登場まで待つこととなりました。