魏帝・曹叡(ソウエイ)の死後、後を継いだ曹芳(ソウホウ)を廃した仲達の子・司馬師。代わってお飾りの帝位に就けられたのは曹髦(ソウボウ)。これら司馬氏の専横を見かねて諸葛誕らが反乱を起こしましたが、ことごとく鎮圧されています。
遂には曹髦も、病死した司馬師に代わって権力を握った司馬昭を除こうと決起しましたが、これも失敗に終わり、曹髦は刺殺されました。
蜀討伐の戦功により、司馬昭は翌年に「晋王」の位を与えられました。これで皇帝の椅子まであと一段という所まで登りつめましたが、さらにその翌年に病死してしまいます。
そして晋王の座を継いだのは息子の司馬炎。彼は父が死んだ同年、早速時の皇帝・曹奐(ソウカン)に禅譲を迫り、遂に皇帝の位に就きます。
西暦265年、こうして魏は成立から約45年を経て「簒奪」という形で滅亡し、新たに「晋」が誕生しました。そしてそれは皮肉にも、魏が誕生した時と全く同じ経緯を辿ったのです。蜀滅亡から僅か2年余りのことでした。 |